カナダBC州の国定史跡【旧交易拠点・城郭編】

HISTORY

カナダのブリティッシュ・コロンビア州にある「ナショナル・ヒストリック・サイト」91ヵ所を、ジャンルごとに紹介しています。
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本記事では、旧交易拠点・城郭編として11ヵ所を紹介します。


旧交易拠点

アレクサンドリア交易地(1925年登録)

アレクサンドリア交易地

正式名称:Fort Alexandria
設立年:1821年
登録年:1925年
所在地:フレイザー川の西側流域にあるアレクサンドリアAlexandriaカリブーCariboo地区
概要:交易地跡

アレクサンドリア交易地は、1821年にノース・ウェスト社の太平洋旅団行路の最北部終点の交易拠点として建設され、ハドソンズ・ベイ社に合併される前の最後の拠点となりました。

1910年代の様子 出典: Parks Canada

コロンビアから運ばれてオカナガン交易地に送られる商品は、この地で列車に乗せられました。ニュー・カレドニアにある拠点に来ると今度は船に積み替えられます。

アレクサンドリアの命名の由来は、1793年にフレイザー川上流域を開拓した探検家アレクサンダーAlexanderマッケンジーMackenzieにちなんでいます。1821年に会社が統合すると、アレクサンドリア交易地は、ハドソンズ・ベイ社のものとなり、1860年代の道路の完成によりその役目を交代するまでの間、物資輸送において重要な役割を果たしました。

アレクサンダーは1793年に開拓に訪れた際に、フレイザー川流域に住む先住民のシュシュワップShushwap族に出会い、彼らに川での移動は危険だということを知らされます。その後に彼らが敵意を示したことから、それ以上の北上は絶望的と考えざるを得ませんでした。アレクサンダーは仕方なく、これまで来た道を引き返すことにし、以降の30年間でヨーロッパ人がこの地に現れることはありませんでした。

19世紀中頃にアレクサンドリア交易地のあるカリブー地区で金が発見されると、カリブー・ロードとして知られる探鉱者たちに使われた道路が1863年に完成します。現在でもカリブー・ハイウェイとして残されています。
その後、1867年までにこの交易地は農場となり、近くの町クイネルQuesnelや、鉱夫たちが多く居住する北部のバーカーヴィルBarkervilleに多くの製品を供給します。ハドソンズ・ベイ社がこの土地を1881年に手放すと、1915年に建物が完全になくなりました。

現在では、交易地の残りの部分で地表面に出ているものはなくなってしまいましたが、1990年代の考古学調査において半径100mほどの規模であったと判明しています。


ホープ交易地(1925年登録)

ホープ交易地

正式名称:Fort Hope
設立年:1848年
登録年:1925年
所在地:ホープHope
概要:交易地跡

ホープの町の西端の0.6エーカーほどの小さな平地にあるハドソンズ・ベイ社Hudson’s Bay Companyの活動拠点となっていた交易地跡で、内陸地への交易の切り口として重要な地点でした。

出典: www.pc.gc.ca

フレイザー・バレー沿いにあるホープの小さな公園に記念碑が建てられています。
1846年に境界が敷かれてコロンビアの河口がアメリカ領になると、ハドソンズ・ベイ社にとって川を利用した交易が現実的でなくなります。
代わりに、商品はラングレーからフレイザーを登っていくルートを取るようになり、そこに1848年頃にホープ交易地が作られました。

商品は、ここから列車に乗せられてカムループスに送られ、その後アレクサンドリアへ、そして水路に分かれてニューカレドニアに運ばれていきました。この陸路と水路の複雑な交易路は、1860年代に付近で金が発見され、それによる賑わいに乗じて道路が建設されるまでの間、続きました。

現在では、商業ビルや駐車場がある小さな区画となっています。


カムループス交易地(1924年登録)

カムループス交易地

正式名称:Fort Kamloops
設立年:1812年 (最初の交易地が完成)
登録年:1924年
所在地:カムループス
概要:交易地跡

ノース・ウェスト社North West Companyハドソンズ・ベイ社Hudson’s Bay Companyの交易活動の拠点となった地です。

出典: fortwiki.com
出典: waymarking.com

1812年に、前年にこの地域を横断したデイビッド・ステュアートDavid Stuart氏が、アスターズAstor’s太平洋毛皮会社の拠点として建てました。同年に同じ場所でノース・ウェスト社が拠点を構築しましたが、翌年にアスターズ社の拠点も買い取り、1821年にはハドソンズ・ベイ社に引き継がれました。
商業的な重要性に乏しかったものの、カムループスはコロンビア部からニューカレドニアへの旅団の移動経路として重要で、またこの草原地帯が荷馬packhorsesを育てるのに最適の場所だったからです。

州の道路ができるとこの拠点は不要となり、1885年までに使われなくなりました。


ラングレー交易地(1923年登録)

ラングレー交易地

正式名称:Fort Langley
設立年:1839年
登録年:1923年
所在地:フォートFortラングレーLangley
概要:交易地跡

ラングレー交易地は、フレイザー川の南側にあるハドソンズ・ベイ社が交易拠点として使用した地域で、1858年にラングレーにてBC州の植民地であると宣言されています。
先住民族の村ユークォートYuquotと同じく、最も初期に登録された国定史跡の一つです。

出典: arapro.ca

1827年にハドソンズ・ベイ社により、現在のビジター・センターがある場所から4kmほど上流の地点に拠点は建設され、その後1839年にこの地に移築されました。
しかし1840年に建物が焼失してしまったことから、その後再建されています。

毛皮貿易が盛んとなり、海洋交易を独占するボストンの毛皮商たちの駆逐に成功しますが、次第に毛皮自体の生産が減少し、別の商品を扱う必要が生じます。
そこで、大規模な農場を経営したり、西海岸の鮭を包装する工場を作って、製品をアラスカの港やハワイや他の太平洋各地域へ輸出します。

イギリスが初期に使用した海岸から内陸地を結ぶ実用的ルートの終点として、1886年まで使用され続けました。


マクレオド交易地(1953年登録)

マクレオド交易地

正式名称:Fort McLeod
設立年:1805年
登録年:1953年
所在地:パック川の西側のマクレオドMcLeodレイクLake
概要:交易地跡

毛皮貿易をより活発化するための最初の交易地としてノース・ウェスト社により建設され、以後の20年間でこの交易地はロッキー山脈の両側をつなぐ唯一の拠点として活躍しました。

1879年当時の様子 出典:historicplaces.ca
1929年当時の会社建物 出典:historicplaces.ca

1805年にノース・ウェスト社は毛皮資源の未開拓地を調査するため、この地の調査を開始します。
その年に探検家サイモンSimonフレイザーFraser氏が、探検グループにパック川を遡上させ、トラウト湖に拠点を作らせると、これがマクレオド交易地となり、これが山脈の西側となるニュー・カレドニア地方における最初の毛皮貿易の活動拠点となりました。

この交易地は、セカニSekaniとの交易と、アタバスカAthabascaへ向かうためのピース川を使用する一行を支援するための拠点として活用されます。

1821年以降は、ハドソンズ・ベイ社が管理を引き継ぐこととなり、20世紀まで使用されます。
現在は、近代的なコミュニティーに親しまれる土地となっています。


要塞

ロッドヒル要塞(1958年登録)

ロッドヒル要塞

正式名称:Fort Rodd Hill
設立年:1898年
登録年:1958年
所在地:ヴィクトリア島のコルウッドColwood
概要:要塞跡

3つの砲台をもつ19世紀から20世紀の海岸線の戦略的な防衛拠点で、エスキモルトEsquimalt海岸の要塞化の役割を果たしました。

出典: iheartradio.ca
出典: photoblimp.com

1878年から1956年にかけて、エスキモルトの海軍基地やヴィクトリア港を防衛するため、海岸に大砲の設置が行われました。
1878年のアングロ・ロシアン危機の際に、簡易的な砲台が作られ、1890年代にカナダとイギリスの交渉により、イギリス軍から人員を派遣してもらうことで、この要塞を恒久化します。

カナダは1906年にこれらの要塞の統治権を受け、第二次世界大戦の終わりまでに再建して拡大させます。戦後の1956年までに使用されることはなくなりました。


セント・ジェームズ交易地(1948年登録)

セント・ジェームズ交易地

正式名称:Fort St. James
設立年:1806年
登録年:1948年
所在地:フォートFortセントSt.ジェームズJames
概要:交易地跡

ステュアート湖畔にある、1826年から1862年の間に使用されたハドソンズ・ベイ社のニューカレドニア地区本部で、復元された毛皮交易地跡です。

出典: northerndevelopment.bc.ca

サイモン・フレイザー氏とジョン・ステュアート氏によって1806年に建設された交易地です。
もともとはキャリア族と交易するためのノース・ウェスト社の拠点でしたが、1821年にハドソンズ・ベイ社に移譲されました。
開拓当初から先住民族との交易において重要な役割をもった交易地です。


セント・ジョン交易地(1958年登録)

セント・ジョン交易地

正式名称:Fort St. John
設立年:1806年
登録年:1958年
所在地:フォートFortセントSt.ジョンJohn
概要:交易地跡

セント・ジョン交易地は、ノース・ウエスト社が建設した毛皮貿易の交易拠点です。

出典: pc.gc.ca

マッケンジーの調査に引き続いて、ノース・ウエスト社は、ダンヴェガンとハドソン・ホープの間にいくつかの交易拠点を設立しました。
1806年にピース川とビートン川の合流点に建設されたセント・ジョン交易地は、後にピース川沿いのさまざまな場所に移されました。
後に1821年にハドソン・ベイ社に管理が引き継がれ、1823年に原住民の襲撃を受けると、その後37年間にも渡って使用されず放棄された状態となりました。

1925年に再建され、現在も建物は残されており、町自体がフォート・セント・ジョンと命名されるきっかけにもなりました。


スティール・タウン要塞跡(1925年登録)

スティール・タウン要塞跡

正式名称:Fort Steele Town
設立年:1887年
登録年:1925年
所在地:フォートFortスティールSteele
概要:北西騎馬警察の兵舎跡

セント・メアリー川沿いにはクーテネイの先住民族が伝統的に保有する土地が保護区としてありましたが、1884年にこの地区が牧草地としての使用に適していると知られるようになると、投資家達が先取りするような形で使用を宣言しました。これに反論する先住民族とヨーロッパ系の投資家達の間で緊張が生じます。

当時を再現した現在の景観 出典: kootenayrockies.com

暴力の発生を恐れ、1887年に北西騎馬警察の保護が要請されると、サミュエルSamuelスティールSteele氏を警察署長とする最初の北西騎馬警察が置かれることとなり、戦略的にクーテネイ川を見下ろすことのできる断崖の上にあるこの地に「スティール要塞」と呼ばれる兵舎が建設され、暴力の発生を警戒しました。
こうして原住民族の首長イサドールは彼の主張を放棄することとなり、その地域は開発用地とされ、警察機能も不要とされました。

スティール・タウン交易地は、1864年のクーテネイ地域のゴールド・ラッシュ時には「ガルブレイスGalbraithのフェリー」の名で知られていましたが、1888年に開拓者たちと原住民族のクトゥナクサKtunaxa族の間の緊張を和らげた功績を称え、フォート・スティール・タウンとその名が変更されました。

1890年代にこの地域では豊富な鉱物が発見され、スティール交易地は地域の商業や行政の中心地として栄えましたが、付近のクランブルックを通過するBC南部鉄道が1898年に建設されると、このスティール・タウン交易地はすぐに衰退していしまい、その後はほとんどゴーストタウン化しました。

現在では、再建された建物が60以上あり、1890年代の雰囲気を感じられるよう、地域民が当時の衣装を着てその日の問題について議論する様子を劇として楽しむことが出来ます。


ヴィクトリア交易地(1924年登録)

ヴィクトリア交易地

正式名称:Fort Victoria
設立年:1843年
登録年:1924年
所在地:ヴィクトリアVictoriaワーフWharf通り
概要:交易地跡

ハドソンズ・ベイ社によって建設されたこの交易地は、ロッキー山脈の西側にあるイギリス領の貿易の中心地となりました。バンクーバー島における最初の立法議会が開催された場所でもあります。

オレゴンとの境界線として北緯49度の線が引かれた1846年から、ロッキー山脈の西側にあるイギリス領内の会社の貿易の本部となり、この地は会社が毛皮貿易のために太平洋へ繰り出す活動拠点として活用されました。
貿易船はこの地に停泊して手に入れた商品を下ろし、代わりに天然産物を搭載して主にアラスカやカリフォルニア、ハワイなど、広範なネットワークを築いて貿易を行いました。

1849年にバンクーバー島の植民地が形成された当時はヴィクトリアが首都であり、この地を使って最初の立法議会が開催されました。

現在でも見ることの出来る3つの船舶係留用のリングは、1843年にハドソンズ・ベイ社によって建設されたビクトリア交易地で唯一現存する当時の断片です。

ヴィクトリア交易地で最後に残った建物は、1864年に解体されました。


城郭

クレイグダーロック城(1992年登録)

クレイグダーロック城

正式名称:Craigdarroch Castle
設立年:1890年
登録年:1992年
所在地:ヴィクトリアVictoriaジョーンJoanクレセントCrescent
概要:城

ヴィクトリアのダウンタウンを見下ろす丘の上にあるスコティッシュ・バロニアル様式の邸宅で、石炭業の実業家ロバートRobertダンスミアDunsmuir氏が、当時19世紀後半の実業家たちの間でみられた富を目立った形で示し、社会的地位を主張したいといういわゆる「ボナンザ城」の願望を象徴して建設されました。

外観 出典: twitter @CraigdarrochC
内部の様子 出典: tourismvancouver.com

建築家のウォーレンWarrenウィリアムズWilliams氏により1890年に完成し、さまざまな建築様式から取り入れられた折衷的なこの邸宅は、石と鉄、上質な木材、ステンドグラスなどのの素材の組み合わせと精巧なデザイン、そして強い垂直を強調した非対称の構造や急勾配の屋根、豊かなコントラストが特徴的です。

BC州で採掘された砂岩と花崗岩、地元で製造された錬鉄、イタリア産の大理石と赤い屋根材に使用されるバーモント・スレート、カリフォルニアのテラコッタ・タイル、輸入された内装の木製パネルなど、大陸横断鉄道を活用してデザイナーや職人、素材は北米中から集めることが可能となり、費用は惜しまず建設された新時代の象徴とも言えます。

クレイグダーロック城は、その後1919年から1921年にはクレイグダーロック軍事病院として、1920年から1946年にはヴィクトリア大学として、1968年から1979年にはヴィクトリア音楽院として使用され、現在は博物館として運営されています。


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