カナダのブリティッシュ・コロンビア州にある「ナショナル・ヒストリック・サイト」91ヵ所を、ジャンルごとに紹介しています。
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本記事では、先住民族の旧居住地編として10ヵ所を紹介します。
先住民族の旧居住地
キーシャン族の村落と砦(1971年登録)
「キーシャン」とは、波が岩に当たる音から来た語です。
現存する伝統の先住民族の村と言われ、BC州の南海岸にある100以上の村のうち歴史を汲み取れる唯一の先住民族の村です。
銘板はバムフィールドのカナダ環太平洋国立公園保護区に残されています。
この地は3000年もの間、ヌートカ族の一部であるフーアイアート族の村の中心として使われたものですが、現存している村は、19世紀から続くものです。
砦はバークレイ湾を臨む、外洋に面した戦略拠点としてヌートカ族の防衛、軍事・外交戦略的拠点でした。
海上輸送の交易ルートの中心にあるため、キーシャンは伝統民族とフーアイアート族の人々の功績と緊密に関係していたことが分かっています。
キツワンクル(1972年登録)
典型的なギックサン族の村で、1990年代にギタンヨウと名づけられた土地です。かつての名称がキツワンクルでした。現在も400名ほどの住民がいます。
Gitが「人々」、’Ksanが「スキーナ川」を意味することから、スキーナ川で暮らす民族という意味を持ちます。
キツワンクルの入り江とキツワンカ川の合流地点に近いキツワンクル・インディアン第1居留地内にある村で、かつてはキツワンクル村と呼ばれていましたが、現在はギタンヨウと呼ばれる約5000年前から続く集落の村です。
伝統的なツィムシァン族の村で、伝統的に彩られた外壁をもつ住居や現在も残るモニュメントのアート、19世紀の中頃から後半にかけて作られたものが残されています。
登録された当時は、ツィムシァン族の村の中では最も多く、そして最も古いと言われる20本のトーテムポールや集団墓地が道路に沿って残されていたと言われています。
キツワンクルの国定史跡は、ギックサン族の村としては最も文化的に保存状態の良い村として登録されました。
ギックサン村はポトラッチと呼ばれる先住民族伝統の祭りの儀式の際に重要な役割を果たした村です。
1950年までは、ナス川とスキーナ川の間を走るオールド・グリース・トレイルだけがこの村にアクセスできる唯一の道で、このアクセスの難しさがこの村を近代化から守ってきたと言われます。
そうした位置関係により、そのトレイルはニスガ族とギックサン族、及びポトラッチによりそれらの民族の中で縁組をされた民族たちの中継地として機能してきました。
トーテムポールのうち3本は、1960年頃に村人により、ビクトリアのBC州博物館にキツワンクル伝統彫刻師ヘンリー・ハント氏により作られた模造品との交換として寄贈されました。この模造品は、1970年に州の史跡の銅板とともに再び建てられました。
残った別のトーテムポールは1968年にスキーナ川トーテムポール保存協会により復元、再建されています。
キュースタ村(1972年登録)
大きな人類考古学上の拠点ではないものの、ハイダ文化の活性化の拠点として重要な役割を果たす場所です。
キュースタ村は 「山道の抜けた先」という意味で、レパス湾から村に続く道を指し、現在も使われています。
村がある場所は、ハイダ・グワイの群島にあるクローク湾に面する湾内の海岸で、グラハム島の北西端、ランガラ島の向かいに位置しています。
キュースタの魅力は、何と言っても村がハイダ族の居住地として現在も使用されていることにあります。
村人が最初にヨーロッパ人と接触したのは、1787年と言われます。イギリスの船長ジョージ・ディクソンがエリーザ号にてハイダ族を訪れました。1799年には他の船もこの村に来航しています。
村の中心は大きな首長の家です。ヨーロッパ人の到来がハイダの生活を混乱させ、多くが北部のアラスカ沖合のプリンス・オブ・ウェールズ島への移動を強いられました。後にこの島は避難してきたハイダ・グアイの人々であふれかえります。
ハイダ村には300人ほどの村人が居たと言われ、人々は当時貴重であった貝殻の取引をしていました。
19世紀のほとんどの期間をカリスマ的首長のアルバート・エドワード・エデンショーが統治しました。彼は、1820年代に村の近くのハドソン湾で船が座礁したときに荷物や武器を探りに行き、その時に持ち帰った武器を売り、多くの奴隷を手にしたと言われています。
1850年代の天然痘の流行により村の人口は大きく減少し、19世紀の終わりには数千年の統治に幕を閉じました。多くの村人は、マセットの近くに移動します。
1930年代には人類考古学者の注目を集め、1960年代に現存する村の保護と、ハイダ族の口頭伝承の記録が始まりました。特にトーテムポールやその他の彫刻物など、多くの写真が残されています。現在は、マセット・コミュニティ博物館でこれらの一部を見ることができます。
ナン・スディンズ(1981年登録)
ナン・スディンズは、「ニンスティンツ」や「スカン・グアイ・ラナガイ」としても知られ、ハイダ族の長屋やトーテムポールが残され、ユネスコ世界遺産にも登録されている島です。現在は、無人島になっています。
この美しい離島は、数千年の間ハイダ・グワイを繁栄させてきたであろう創造的な人々が存在したことを物語っています。海や山の両方から食料を調達できる環境にも恵まれ、豊富な資源を容易に入手でき、ハイダ族は工芸品のような複雑な文化の発展に十分な時間を有することができました。
西海岸にヨーロッパからの船が現れ始めた1700年代、スカン・グアイの島々に住むナンスディンズの村人たちは、彼らとカワウソをはじめとする毛皮の取引をすぐに行いました。しかしヨーロッパ人がもたらした天然痘により苦しめられることになります。村は300人ほどの人口を擁していましたが、1888年に完全に廃れるまでは、次第に数が減少していき、晩年には20~30人までとなっていしまいました。
そうした状況の中で、古物商たちが島に乗り込み、空っぽになった村の富を片っ端からはぎ取って行きました。その中には、葬式で使われる彫刻のポール、木で作られた箱、仮面など様々な伝統工芸品があったと言われています。村に残されたのは、葬式用のポールが32本とわずか10軒の家のみになってしまいました。それでも残されたこれらのものは、このジャンルの中では世界でも最高の品質のものとして評価されています。
こうした消滅した文化的伝統の保護の必要性もあり、島はユネスコ世界遺産に1981年に登録されました。今日、ハイダ・グワイで監視を行うスタッフがグワイ・ハアナス国立公園とハイダ史跡の全体を監視しています。
ニュー・ゴールド・ハーバー地区(1972年登録)
ミッチェル湾にある金鉱と銀鉱の最初の鉱山キャンプで、ハイダ・グワイのモレスビー島のタス湾にあります。
1859年までに、価値にして$5,000~$75,000の金が採掘され、1907年にはヌバ鉱山として周辺の鉱山を取りまとめられましたが、以降採掘量は振るわず、1912年には業務を停止しました。
それでも経営者は諦めず、当時の日本人鉱夫の活躍もあり、1933年まで営業を続けました。最終年には$179,000の採掘を行いましたが、この年に閉山しました。
モレスビー島の西海岸にカイスンという村があります。インスキップ運河の東端にあり、チャートゥル村の南に位置するこの村で、チャートゥル村の首長が「ドッグフィッシュ・ハウス」と呼ばれる大きな家を建て、居住していました。
1840年当時で、300人以上の村人がおり、それぞれ20軒の家に住んでいたと言われています。
カイスン村の首長スコツガイは、3軒の家を保有し、その中でも主要なものは「雲の上の家」と呼ばれるもので、ハイダでも「摩天楼の家」と呼ばれていました。
1849年、この地域で金が発見され、島のゴールドラッシュが始まりました。スコツガイは自身の名前をキャプテン・ゴールドに変え、彼の村はゴールド・ハーバーとして有名になりました。十年後、彼は村をハイダ・グワイの東海岸のスキデゲート近くのハイナ(ニュー・ゴールド・ハーバー)に移しました。
スケダンス(1987年登録)
スケダンス村は、ルイーズ島のカムシェワ湾に面した半島の根元にある島です。
岩のごつごつした半島は、村を護るための要塞化には適した場所でした。
「スケダンス」という名は、村の首長ギダンスタの名前としてヨーロッパ人により与えられた名前です。ハイダ族による元来のこの地の名前は「クーナ」で、グリズリー・ベアの町を意味するものでした。
海峡を挟んで対岸にあるツィムシャン族の村キトゥカトゥラの首長ツェバッサとは良好な関係を築いており、それもそのはず2人の祖先は共通と言われており、それにおり交易やポトラッチと呼ばれる贈答の儀式の開催をもって関係が続きました。
ハイダ族を乾燥させたカレイ、乾燥海藻、数の子、カヌーを輸出、見返りにツィムシャン族からワカサギの仲間のユーラカンで作った油、乾燥ベリー、ヤギの毛皮や角などを輸入するなど、交易を積極的に行っていたと言われています。
タヌー(1986年登録)
タヌーは、ラスキーク湾にあるハイダ族の重要な村落で、南東風もしくはこの村が面する海の一面に生えていた海草であるアマモを意味し、「クルーの村」とも言われます。
1725年に村は設立され、1880年代には荒廃しました。最後の首長、ギトゥクンは19世紀の初めにスキデゲートで亡くなっています。
1967年には、1885年頃に行われた葬儀を示す大量の墓の存在が記録されています。これは、最後の居住者が侵略者に追われ村を去る直前のものと思われています。
キリスト教の宣教師により、彼らの死を葬るように促され、タヌーの人々は残りを遺体安置所から50体以上を共同墓地に集めて葬儀を行ったと言われています。
1840年頃には、545名の村人がいたと記録されています。ハドソン湾会社のジョン・ワーク氏によると、これは群島内でも最大規模であったと言われています。
その後に流行した天然痘により1884年頃には人口は150名まで減少し、1887年には80名になりました。この年に村人による移住が決断され、北側のニュー・クルーへの移動が行われます。新しい村は、1897年まで使用され、その後に島中のハイダ族の統合が行われ、 スキデゲートに移住することになりました。
この地は、「タヌー族居留地第9」という指定がされているため、保護公園には指定されていません。
村の入り口に設置されていた2体の歓迎の像は、1930年代に撤去され、プリンス・ルパートの公園に展示されるため移動されました。状態の悪化を防ぐため、1965年にはヴィクトリアの王立博物館に移動されています。
鯨狩りたちの神社(1983年登録)
「鯨狩りたちの神社」は、ヌーツカ島のジュウィット湖にある無名の島の南端にあるヌートカ族の鯨狩りのための重要なモニュメントのオリジナルサイトで、神社自体はアメリカの文化人類学者により1905年に解体され、現在は、島の海岸に近い深い森だけが残されています。
神社の一部は、ニューヨークにあるアメリカ自然史博物館に残されています。
モワチャートの口頭伝承によると、鯨狩りはイーアス村とツァクシス村で発明されました。
これらの村の住民はこの発明のおかげで特別な社会的な地位を手にすることができ、後にその技術をもってイーアス村を出てユークォート村を統治したヤルアクタクムラス家になります。
ユークォートの鯨狩りたちは、それぞれが各家族がそれぞれの神社を持ち、いずれもシンプルな小さい構造の物です。こうした神社は儀式的に浄化する場所として使用されました。家のような構造で、動物や精霊の像、そして遺体や人骨が置かれていました。人事の場所は家族にしか知らされず、首長により所有されることもありましたが、他の誰も近づけさせず、中に入れることはもってのほかでした。鯨狩り神社や鯨狩りの見張り小屋として知られていますが、多くは家族により引き継がれているものです。いつ作られたものかははっきりしていません。
ハーイテム / ハツィック岩(1992年登録)
ハツィックは、ミッションの東にある地域で、BC州で発見されたものとしては最古となる5000年~9000年前に人類が生活していたことを伺える遺跡です。
調査に携わった人類考古学研究チームは、ストーロー民族とつながりのある古代の変形した石にそって窪地に建てられた家を含む、長年使用された形跡のある長方形の窪みや長屋が存在したと思しき形跡から、人類の居住の形跡であると分析をしています。
ハツィック岩は、ストーロウ族の伝説として先住民たちに「変身の岩」として知られています。
岩にまつわる話には、次の2つの伝説があります。
伝承を知らなければただの岩であり、長屋も丸太がかかっているだけの姿になっています。しかも、この丸太自体も時が経つにつれなくなりつつある現状があります。
ヨーロッパ人が移住を始め、この遺跡が発見されるまでの間、この地は長らく牧草地として使われてきました。
しかし、20世紀初めに高速道路の建設の機運が高まり、当時この地の歴史的価値に疑問を持っていたゴードン・モー氏が、調査を行ったことにより、北米では最古の人類の生活の痕跡が発見されました。こうした歴史的価値を踏まえ、政府は先住民のストーロウ族にこの地を返還しました。
その後ストーロウ族は、この地の伝説を伝えていくための博物館を建設しました。
ヤン村インディアン・サイト(1972年登録)
「ヤン」とは「真っすぐ進んだところの町」を意味します。
17軒の家がある大きな村で、18世紀末に建てられたもの、2つの家の分断が発生しました。片方は、マセットの入り江の奥の村に住む人々で、入り江を渡ってヤンに引っ越しました。
ヤンの村の首長スティルトゥラはマセット村の首長ウィアーと共に1852年に船スーザン・スタージス号の捕獲を行いました。捕獲後、船はヤンに渡され、探った後に沖合で燃やしました。スティルトゥラはマセットに別の大きな家を建て、そこに船の船尾から取った木彫りの鷲を飾りました。
1881年に頃には町は活気づいていて、マセット村の首長ウィアーがマセットに戻るようにヤン村に呼び掛けたため、ヤン村は捨てられました。
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