1886年に発生したバンクーバー大火災とは

GOOD TO KNOW

1886年に発生した「バンクーバー大火災Great Vancouver Fire」をご存知でしょうか。

1886年6月13日に発生した大火災で、当時材木加工や海洋貿易などで賑わう、都市開発への意欲に燃えるバンクーバーにとって、大変大きな衝撃となった事件です。

火災の発生

火災の発端

消失地域 出典:gastown.org

この大火災の発端は、森林開拓のための野焼きbush fireがきっかけでした。
雨が数週間降らず、暖かく乾燥していた6月のことです。
カナダ太平洋鉄道Canadian Pacific Railway(CPR)の職員は、鉄道の敷設を目指し急速に土地開発を進めていくため、その日も現在のメイン通りとキャンビー通り付近にあたる地域の草地を燃やしていました。すると乾いた強風に煽られた火が瞬く間に炎と化して森林に燃え広がり、職員たちの対処不能に陥ったのです。わずか20分ほどで多くの木造建造物を焼失させました。

異様に立ち昇る煙を見た住人が、聖ジェームス教会のベルを鳴らし、火災の発生を周囲に知らせます。同時に、何人かの男たちは大声で叫びながら町中を駆け回り、住民たちに避難を呼びかけていきます。しかし当時、まだ半分は森林地帯だった開発途中のダウンタウンの町では、火は木から木に瞬く間に燃え広がり、次々と町中を飲み込んでいき、なす術もない市民たちを襲っていきました。

バンクーバーは燃えたんじゃない。吹き飛んだんだ。

目撃者の証言

当時の目撃者の証言が火災の威力火の手の廻りの素早さを物語っています。

延焼による犠牲

出典:gastown.org

多数の尊い人命も奪われました。正確な数は明らかにされていませんが、一説では犠牲者数は28名にも上ると言われています。鎮火後に行われた非公式の検視結果では、犠牲者数は8名でしたが、この他にもこの地域に移り住んできた身元不明の遺体も多くあったために、混乱の中で正確な数が把握できなかったようです。火災から数年が経って町が復興していくさなかでもまだ遺骨が見つかったこともあると言われているほどです。
不幸中の幸いだったのは、火災発生が日曜日で、多くの家族たちは町の外に出かけており、多くが不在にしていたことでした。

この火災は延焼を続け、ダウンタウンの多くの建造物を焼失させました。焼失した建造物は1000棟余りと言われ、当時まだ森林地域も多かったバンクーバーでは、市街地のほぼ全ての建物が焼失したと言っても過言ではありませんでした。

出典:gastown.org

人命や家屋と共に、歴史的な建造物の多くも失うことになりました。
ほとんどの建造物が木造だった当時、ウェストエンドにある木材加工業ヘイスティングス・ミルの建物や、フォールス・クリークにあるいくつかの石造りでできた銀行のみ、火災の難を逃れることができましたが、それ以外の多くを焼失しました。

現在、このヘイスティングス・ミル・ストアはキツラノに移築され、記念館として使われています。

オールド・ヘイスティングス・ミル・ストア記念館Old Hastings Mill Store Museum
1575 Alma St, Vancouver
冬季(2月~6月、9月~12月):土曜・日曜のみ13:00~16:00
夏季(6月~9月)      :火曜~日曜 13:00~16:00
12月~2月中旬は休業

「仇を恩で返す」先住民族による救助活動

逃げ場を失った多くの人々は、バラード入り江に飛び込みます。舟で逃げることができる者もいれば、流れる木材の破片に掴まる者もいました。
そこで、対岸で異様な煙火を目撃した北岸に住む先住民族のスクォーミッシュ族が、カヌーを漕いで入り江に繰り出し、沈みかけていた生存者を多く救出しました。
彼らは以前に、バンクーバー地域を居住地域にしていましたが、その都市開発化から故郷を追い出され、ノースバンクーバー地方に移住を余儀なくされた経緯がありました。そんな「仇」を受けたにも関わらず、彼らは火災から逃れ水上で身動きが取れなくなっている生存者の元に急いで舟を漕ぎ付け、多くの命を救う「恩」を果たしたのです。

素手で消火活動を行った熱い男たち

バンクーバーの第1消防団Volunteer Hose Company No. 1が当時結成されていましたが、オンタリオから道具を調達している最中の彼らには、消火活動を行うための道具を持っていませんでした。
斧とショベルとバケツと熱い気持ち“enthusiasm”だけで消火活動にあたったと言います。

火災後に給料の受領に現れなかったことから行方不明とされた3人の男たちは、消火活動を行おうとして亡くなったと言われています。

消火活動を行うための装置は、皮肉なことに火災発生から1ヵ月経った7月になってやっと納入されることになりました。

火災後

およそ130万ドルの損害を出した大火災でしたが、火災の翌日には仮設ホテルが再建され営業を再開するなど、復興とバンクーバーの都市化への市民の意欲は大変に強いものでした。

火災翌日に再建されたトレモントホテル 出典:gastown.org

近隣の街による助けを受け、被災した市民たちはボランティアの医師や女性たちにより集められた食料、医療品、衣服、生活用品などの支援を得ることが出来ました。

火災後、市は、近代的な水道や電気システム、道路の整備を進めました。

また、二度とこのような悲劇を起こさないという決意の表れから、6,900ドルが消防設備の購入消防署の設立に投じられ、防火用貯水池が作られました。「バンクーバー消防署」の設立もこの年に行われました。

また4人の巡査が当時の市長によって任命され、火災後のバンクーバーの復興にあたります。これが「バンクーバー警察」の始まりです。

当時を物語る火災で生き残った少女の衣服や、溶けて金属塊と化した聖ジェームス教会のベルなどがバンクーバー博物館で展示されています。

バンクーバー博物館の展示 出典: www.cbc.ca

バンクーバー市は火災の教訓から、建造物は石造りもしくはレンガ造りにしなくてはならないというルールを作ります。これにより、現在も歴史ある建物として残る19世紀終わりから20世紀の初めにかけて作られた建物が、あのような風貌になったんですね。

バンクーバーの美しい街並みも犠牲の上に立っているのだと思うと、見方が少し変わってくるかもしれません。

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