カナダのブリティッシュ・コロンビア州にある「ナショナル・ヒストリック・サイト」91ヵ所を、ジャンルごとに紹介しています。
このサイトについてや全体像を見るには下記記事へ!
本記事では、住居・遺跡編として8ヵ所を紹介します。
個人邸宅
ロバート・ストリート223番地(1990年登録)
カナダにおけるクイーン・アン復刻様式の国内建築の好例です。出窓や海を見渡しやすい八角形の塔のある左右非対称の外観で、採光用窓、三角屋根、レンガ造りの煙突が特徴的です。
この地域で発達した木材加工技術を活かした木造住宅で、カナダ製材業の黄金時代の象徴ともいえます。
しかし、悲しいことに2020年4月に原因不明の出火が発生し、かろうじて原型は留めているものの、内部の大半が焼失するなど、重大な損傷を受けています。
ビニング邸(1998年登録)
バラードの入り江を臨む木々の生い茂る急斜面にある閑静な地域にあり、戦時中に建造された小さな2つのベッドルームのある家で、画家のビニング氏の個人邸宅として使用されました。
低く構えた平屋根の構造で、草木の中に埋もれ景観に自然に溶け込むデザインは、カナダの住居構造の近代の動きを牽引します。
柱と梁、平屋根と深さのある張り出しのシンプルな構造は戦後の1950年代から1960年代に住宅建築に大きな影響を与えた大胆で革新的なデザインで有名です。
家づくりにあたって、当時の経済状況を反映してローカル素材を使用して効率的な建築法を使用しています。抽象画の壁画を活用し、アートと建築を融合し、形と機能の両面をもち、カナダ中の他の建築に大きな影響を与えたと言われています。
エミリ・カー・ハウス(1964年登録)
「サン・フランシスコ風」や「英国式ジンジャーブレッド(凝った造り)」などと形容される2階建てのイタリア様式の個人邸宅で、カナダ出身の画家で作家のエミリー・カー女史の生家です。
エミリー・カーは、カナダがイギリス統治から脱したわずか6ヵ月後の1871年にここで出生しました。
インナー・ハーバーや州議事堂からわずか4ブロック入ったところにあり、ヴィクトリアに行ったら必ず訪れたいところの一つです。
ビーコン・ヒルにも近く、セントラル・ベイをのぞむバルコニー式玄関が象徴的です。
ブリティッシュ・コロンビア州副知事公邸(2002年登録)
ヴィクトリアの居住地域であるロックランド断崖として知られる高い土地の上にあり、フアン・デ・フカ海峡を望むことができるこの36エーカーの土地は、1865年に当時の総督により使用が開始され、1865年からは州知事と副知事の邸宅として使用され、3代目となる現在の邸宅は1959年に完成しました。
元々の建物として1860年に建てられたキャリー城を、1865年に統治政府がバンクーバー島の総督の邸宅として購入しました。1871年にBC州が同盟に加盟以降は、歴代の副総督邸として引き継がれますが、1899年に火災で焼失しました。
2代目の副総督邸はすぐに建設が開始され、1903年に完成しました。しかし、この2代目邸も1957年の火災で大部分を焼失していしまいます。
現在の建築は1957年から1959年に行われたもので、3代目の邸宅ということになります。
テューダー復刻様式で再建され、印象的な正面の車寄せは、火災で焼失した2代目の邸宅から焼き残った部分を再利用しています。
庭は20世紀初めに副知事によって配置されました。
別棟は、初代邸のあった1872年から1903年の間に作られ、19世紀時点でどれだけ豪華だったかがうかがえます。イギリス式のエドワード王朝時代にインスパイアされたデザインが採用されており、現在も日々進化しています。
ポイント・エリス・ハウス / オーライリー邸(1966年登録)
平屋のヴィクトリア式コテージで、植民地時代の官僚ピーター・オーライリー氏の邸宅として使用されました。
セルカーク水路とジョージ水路を望む木々の茂るところ、陸からの海からもアクセスできる位置に建つ邸宅で、1861年から1862年にかけて建造されたヴィクトリアで最も古い家屋の一つです。
当時周囲には似たような邸宅が並んでいましたが、このイタリア式のコテージと歴史を物語る庭は、19世紀に郊外に住む地域住民の憧れの存在でした。
1975年にジョンとアイネズ・オーライリーが自分たちの家であるポイント・エリス・ハウスをBC州政府に売却しました。家具や荷物、絵画、楽器、服などいくつかの個人所有品だけをもって、108年にわたる一族での所有を終えました。
当時の時点で、似たような家屋は既になくなりつつあった中で、この邸宅だけは良好な保存状態で残されており、ヴィクトリア政府とBC州政府は、ポイント・エリス・ハウスの周囲を急いで整備し、現在はミュージアムとして管理しています。
都市部再開発の中で消えつつあった19世紀当時のデザインが残る伝統的好例として、現在も愛されています。
共同墓地
ハーリング・ポイント中国人共同墓地(1995年登録)
フアン・デ・フカ海峡の海岸にある1950年以前の中国人の共同墓地で、カナダにある中国人墓地としては最古の物として、カナダ移民の記念として現在も使用されています。
中国人連結優遇協会により、1903年に風水的に自然に融合している場所として、海峡に向かって南西方面向きの緩やかな斜面にある3.5エーカーのこの地が選ばれ、墓地が建設されました。
風水的には、北や東西から吹く風の当たる場所は好ましくないとされているため、そこからかくまわれた位置で、かつ海峡やオリンピックマウンテンを広く見渡せる自然の岬として、最良の立地となっています。
カナダに移民として渡って来た彼らにとって、1937年に開始した日中戦争で本国への帰国が叶わなくなり、死後にだけでも本土に帰りたいという願いの現れとして建てられたものでした。
1950年までは個人墓地として使用されていましたが、1961年にはカナダ本土中から集められた遺骨がここに埋葬されることになります。
埋葬地は広い草原地帯の中に、所狭しと個人の墓が並んでいます。ほとんどは海岸に平行に建てられています。1923年までに移民してきたパイオニアたちの墓として、中国の革命以前のスタイルの13の大きな墓があります。他の300は墓石により記載がされており、他にも2つの焼却炉塔と祭壇が特徴的です。
木がほとんどない開けた丘で、小道もほとんどなく設計されているのも、すべて風水によるものと言われています。
2016年9月には、2つの塔が何者かによってスプレーで落書きをされるという不敬な事件も発生しています。
遺跡
クートゥニー・ハウス(1934年登録)
かつてのノース・ウェスト会社が使用した最初の貿易地で、コロンビア盆地およびその流域における考古学上の重要な地点として評価され、デイビッド・トンプソン氏のコロンビア川流域探検の基地にもなりました。
石造りの煙突や柵で作られた塹壕があったとされていますが、現在では地表に残っているものはほとんどありません。
1806年にノースウェストカンパニーのクラーク、ジャコ・フィンレイ氏がサスカチュワンからコロンビア川にかけてのハウズ山道に鉄道を敷きました。翌年にはこの道をたどってコロンビア川への到達を達成し、ウィンダーメア湖の下にこのハウスを建設しました。
ダグラス・ファーに立つ開けた草地で、川の上に立つ防御できる立地にあるこの要塞を基地として、コロンビア川上流域とクートゥニー川への探検が進み、コロンビア分水山脈に拠点を点々と作っていくきっかけとなりました。
このハウスは、1812年まで定期的に使用されていたとされていますが、山稜の東側にいた先住民族のピーガン族の敵意に触れ、その後に崩壊してしまいます。
この土地は、1935年にハミルトン夫妻によりカナダ政府に寄付されました。
マーポール貝塚(1933年登録)
沿岸部に拠点をもつセイリッシュ族が居住地としていた遺跡を含む、西カナダ最大の先住民の貝塚として評価されています。
アーサー・レイング橋の北端近くにあり、バンクーバー市の南端にあるこの広大なゴミ塚の発掘は、1892年に チャールズ・ヒルタウト氏により行われ、太平洋岸のその他の有史以前の貝塚に関する考古学研究を発展させました。
かつてフレーザー川の河口だったこの地では、先住民の残した1500年から2900年前のものと推定される軟体動物の軟体貝類が主に採掘され、石や骨でできた人工加工物を含む、多くのものが深さ平均約1.5mから4.6mで出土しました。
紀元前400年から西暦450年頃にかけてフレーザー川の河口のジョージア海峡の横に存在していたこと、また人々の生活があったことの証明になりました。その後は、自然の沈殿により、場所が移動したとされています。1955年までに都市開発により貝塚のほとんどが消失しています。
他にも多くのものが都市部の下に眠っていると言われています。
マーポールでのこの海洋指向な木材加工技術は、後の北西海岸域に大きな文化的影響を与えていたとされます。
その他のジャンルのBC州国定史跡の紹介はこちらから!