カナダやその他の国で生活する方々にとって、飛行機を利用したことがない人はいないと思います。また、パイロットの皆さんにとって、日ごろから航空安全には十分過ぎるほど考えていることと思います。
今回は、カナダで過去に起きた痛ましい航空事故と、それを忘れないために作られたメモリアルサイトの9つを紹介します。
近くを訪れる機会があれば、僕もいつかは全ての箇所に訪れたいと思っています。
エア・インディア・メモリアル(BC州)
1985年の「エア・インディア182便爆破事件」と、「成田空港手荷物爆発事件」という2つの事件で犠牲になった方々を偲び、建てられた記念碑です。
エア・インディア182便爆破事件とは
1985年6月、エア・インディアのボーイング747が、北大西洋上で墜落した事件です。モントリオールを離陸し、経由地のロンドンに向かう途中の事件でした。インド政府と対立していたシーク教の過激派「ババール・カルサ」とその関連メンバーが、同機に搭載された手荷物の中に仕掛けた爆弾を爆発させ、意図的に墜落させた爆破テロ事件です。
このテロ事件により、乗客・乗員の計329名、全員が犠牲になりました。
成田空港手荷物爆発事件とは
上記の182便が墜落した事件と同日の同時間、成田空港でも別のエア・インディア機が同様の手口で標的にされました。バンクーバー発東京行きの便から、東京発バンコク行きの便への荷物の輸送が行われている途中、手荷物サービスセンターで爆弾が爆発し、作業員の2名が死亡し、4名が重傷を負いました。爆弾はバンコク行きのエア・インディア301便を狙ったものでしたが、日本がサマータイムを採用していないことを犯人グループが考慮しておらず、飛行機が離陸した後に爆発することを意図したはずが、予定より1時間早く爆発したと言われています。
エア・インディア・メモリアル
メモリアルサイトは、カナダ国内に2ヵ所建てられたほか、182便の救助にあたったアイルランドのアハキスタでも建立されました。
セパリー・パーク(スタンレー・パーク内)
カナダにあるうちの一つは、BC州バンクーバーのスタンレーパーク内のセパリー・パークにあります。犠牲者の名前が書かれた、緩やかな傾斜がついてカーブを描く石垣のモニュメントは、飛行航跡をイメージして作られています。これは、墜落地点に最も近く、救助活動にも協力したアイルランドの南西の町アハキスタ産の石で作られました。この2件の事件は、いずれもBC州内で計画され、爆弾もそれぞれバンクーバー空港から送られています。
ハンバー・ベイ・パーク・イースト
もう一つは、トロント国際空港の南東約15kmにある公園「ハンバー・ベイ・パーク・イースト」に設置されています。
サイレント・ウィットネス・メモリアル(NL州)
1985年に米軍兵士の帰国途中のチャーター機で発生した「アロー航空1285便墜落事故」の犠牲者を偲び、建てられた平和記念公園です。
アロー航空1285便墜落事故とは
1985年12月、エジプト・カイロ発ケンタッキー州フォート・キャンベルに向かう米軍兵士の輸送用チャーター機DC-8が、経由地ニューファンドランド州ガンダーでの離陸直後に失速し墜落した事故です。これにより乗員・乗客の計256名、全員が死亡しました。犠牲になった兵士達は、シナイ砂漠で行われた平和維持活動からの帰国途中でした。
テロ事件の犠牲となった同年6月のエア・インディア182便を除き、カナダ本土における航空事故としては、死者数が最多の航空事故です。事故調査をもっても原因は不明確で、着氷による失速または何らかの爆発に起因するものと考えられています。
サイレント・ウィットネス・メモリアル
ガンダー国際空港のすぐ南側、実際の墜落現場でガンダー・レイクを見渡せる岩の上に、事故から5年後の1990年に建立されました。兵士の両手を繋ぐ子どもたちの手にはシナイ半島における彼らの平和活動の象徴であるオリーブの枝があり、彼らの向く先には、犠牲となった兵士が所属する「アメリカ陸軍 第101空挺師団」の母基地ケンタッキー州フォート・キャンベルがあります。この自然に囲まれた辺り一面が、256名の尊い夢が果てた瞬間の「静かな目撃者」であるとして、その名が与えられました。
ニューファンドランド州のデザイナーによりデザインされ、ケンタッキー州の彫刻家により製作されました。
ほかにも、フォート・キャンベル内や、基地の北側のホプキンスヴィルにも記念碑が建てられています。
ベイズウォーター/ホエールズバック・スイスエア・メモリアル(NS州)
1998年12月に発生した「スイス航空111便墜落事故」の犠牲者を偲んで建てられた2カ所の記念碑です。
スイス航空111便墜落事故とは
1998年12月、ニューヨークのジョン・F・ケネディ空港を離陸し、大西洋を横断してスイス・ジュネーヴに向かうスイス航空のMD-11が、ノバスコシア州沿岸で墜落した事故です。乗員・乗客の計229名、全員が死亡しました。
原因は、機内客室の天井裏の配線がショートしたことにより火災が発生し、操縦室まで延焼したために操縦系統が故障、緊急着陸を試み飛行中に操縦不能に陥って墜落したものです。
2つのメモリアルと墜落地点がつくる正三角形
墜落地点を挟んで東西の陸地に2ヵ所のメモリアルサイトが作られています。これらの関係はほぼ正三角形で、どの位置からもほかのすべての地点が見える見晴らしのいい場所に設置されています。
ベイズウォーター・スイスエア・メモリアル
三角形の西側にあたる、ブランフォードのベイズウォーター・ポンドの南端の一画にあります。犠牲者の名前が刻まれた記念碑のほか、身元不明の遺体が葬られています。
ホエールズバック・メモリアル
こちらは三角形の東側にあたる、ペギーズ・コーブの北西約2kmにあるホエールズ・バックの岬に記念碑が建てられています。
サント・テレーゼ墓地(QC州)
1963年にケベック州で発生した「トランス・カナダ航空831便の墜落事故」の犠牲者を偲び建てられた墓地内の記念碑です。
トランス・カナダ航空831便墜落事故とは
1963年11月、モントリオールのドーヴァル発トロント行きのトランス・カナダ航空831便のDC-8が、夜間の悪天候の中で離陸、約5分後にケベック州サント・テレーゼ・ドゥ・ブレンヴィル近郊に墜落し、乗員・乗客の118名、全員が死亡した事故です。カナダの航空会社による航空事故史上、最大の死者数となりました。
墜落現場は深さ2mのクレーターができるほどの凄惨なもので、機体の損傷は極めて激しく、墜落に至った原因の特定はできていません。公式報告では、機体の上下運動を調整するピッチトリムシステムが故障していた可能性が指摘されています。他にも、ピトー系統への着氷や、上下のジャイロの故障の可能性があると言われています。
サント・テレーゼ墓地
モントリオール国際空港の北西約30kmのところ、墜落現場に近いサント・テレーゼ墓地の中に、記念碑が航空会社により建てられています。墜落現場自体は、現在は閑静な住宅地になっています。
エア・カナダ621便メモリアル(ON州)
1970年にトロントで起きた「エア・カナダ621便墜落事故」の犠牲者を偲んで建設された記念公園と、共同墓地内の記念碑です。
エア・カナダ621便墜落事故とは
1970年7月、トロント・ピアソン国際空港で発生したDC-8の航空事故です。モントリオールを離陸し、ロサンゼルスに向かう途中の経由地トロントで、着陸時に第4エンジンが地面に接触して落下、その後態勢を整えて再着陸を試みようとする過程で、右主翼が炎上して脱落し墜落した事故です。乗員・乗客の計109名、全員が死亡しました。
原因は、着陸時に副操縦士がスポイラーを誤まったタイミングで展開操作し、飛行が不安定化したことによります。これにより機体はバランスを崩し、4基あるエンジンのうち最も右側の「第4エンジン」が地面に接触、地上に脱落します。その後の再着陸に向けた飛行中に、エンジンの落下によって起きた燃料漏れに伴い翼面が引火したため、空中で主翼が脱落し、墜落しました。
エア・カナダ621便メモリアル
メモリアルサイトはトロントに2ヵ所あります。1つは、墜落現場となったトロント空港の北側の町ブランプトンで、もう1つは、犠牲者の埋葬が行われた空港東側の墓地マウント・プレズント・セメタリーです。
ブランプトン・メモリアルガーデン
トロント国際空港の北西約15kmにある、墜落現場となった住宅街の中にある記念公園です。事故調査に必要な処置を得たのちは長年放置されてきた土地でしたが、2010年に事故の40周年の節目に当たり、記念公園の改修が行われました。
マウント・プレズント・セメタリー
マウント・プレズント・セメタリーは、トロントで多くの著名人が眠る墓地として有名で、墓地自体は2000年にカナダ国定史跡に指定されています。ここでは犠牲者のうち55名と搭乗員が埋葬され、記念碑が事故の翌年の1971年に建てられました。1979年には、事故機の会社であるエア・カナダが追加の記念碑を建てています。
なお、埋葬されている著名人の中には、第12代・14代・16代カナダ首相を務めたマッケンジー・キングがいます。現在の50カナダドル札に印刷されていることで有名です。
トランス・カナダ航空810便メモリアル(BC州)
1956年12月にブリティッシュ・コロンビア州のチリワック近くの山中にて発生した「トランス・カナダ航空810便の墜落事故」の犠牲者を偲び、建てられた記念碑です。
トランス・カナダ航空810便墜落事故とは
1956年12月、バンクーバー発トロント行きの4発プロペラ機カナディア・ノーススターが、経由地のカルガリーに向かう途中、ブリティッシュコロンビア州のチリワックの南東にあるマウント・スレッセで、強い着氷と乱気流により墜落した事故です。乗員・乗客の計62名、全員が死亡しました。犠牲者の中には、2名の日本人も含まれています。
巡航高度への上昇中、第2エンジンの火災探知警報が作動したため、パイロットは該当エンジンを停止しました。バンクーバーへ帰投する途中で通信が途絶え、レーダーから機影が消失しました。当時は天候が悪く、出力も通常より少ない中で強い着氷と乱気流を受け、高度を維持できず墜落したと言われています。
遭難の事実は早くに判明しましたが、現場は急峻な山岳部で積雪も多く、カナダ空軍や民間の捜索救難チームによる必死の捜索も空しく、場所の特定すらできませんでした。捜索チームは冬季の捜索を断念し、夏の雪解けを待たざるを得ませんでした。
しかし、実際には雪解けを目前にした翌年の5月に、墜落地点が偶然にも特定されます。まだ雪の残る中、登山に訪れた3人の青年たちが、頂上を目指す途中で吹雪により迷ってしまいました。その際に偶然、頂上近くで日用品や航空地図の一部を発見したのです。確証を持てませんでしたが、下山後に山岳管理者に相談したところ、810便のものと断定され、数日後に派遣された捜索隊が機体を発見したのです。
トランス・カナダ航空810便メモリアル
BC州チリワックのダウンタウンから南東に約50km、標高2,439mのマウント・スレッセの標高約1600m地点にメモリアルが建てられています。ここまでは非常に険しい道のりで、一部の登山道では砂礫が流れて道を覆っており、車高のある四駆車以外での進出は困難とされています。記念碑のある地点から、さらに約1.5km離れたところに事故機のプロペラで作られた石碑があります。
カナダ太平洋航空21便メモリアル(BC州)
1965年に発生した「カナダ太平洋航空21便の墜落事件」の犠牲者を偲び建てられた記念碑です。
カナダ太平洋航空21便墜落事件とは
1965年7月、バンクーバー発ホワイトホース行のカナダ太平洋航空21便のDC-6Bが、経由地のプリンス・ジョージに向かう途中で爆発を生じ空中で大破、乗員・乗客の計52名、全員が死亡した事件です。
機体は大破しましたが、現場検証の結果、火薬などの成分が検出されたことから、爆発は荷物の中に仕掛けられた爆弾によるものということが判明しています。当時のカナダ警察は、搭乗者のうち4名の乗客について、犯行の可能性を調査してきましたが、いずれも証拠不十分で容疑者の割り出しには至らず、現在もなお未解決事件のままとなっています。
カナダ太平洋航空21便メモリアル(BC州)
ワンハンドレッド・マイル・ハウスから約32km西の山林の中にある墜落現場には、飛行機の残骸はまだ残されています。これまでは、遺族などは現場に行って記念のプレートを損傷した立木に埋めるなどして、慰霊をしてきました。しかし2013年に、ワンハンドレッド・マイル・ハウス空港の近くの湖畔沿いに、ここの住民が募った基金により記念碑が建てられ、新たな慰霊の場となりました。
オンタリオ航空1363便メモリアル(ON州)
1989年に発生した「オンタリオ航空1363便の墜落事故」を偲んで建てられた記念碑です。
オンタリオ航空1363便墜落事故とは
1989年3月、カナダ南部サンダーベイからウィニペグへ向かう途中の経由地ドライデン空港で、オンタリオ航空のフォッカーF28が墜落した事故です。乗員・乗客69名のうち、機長・副操縦士を含む24名が死亡しました。
この事故は、様々な不幸が重なって発生しました。
ドライデン空港から離陸するには、除氷作業を行う必要がありました。しかし、当時機体の補助動力装置 (APU) が故障しており、ドライデン空港では外部電源を供給する装置を保有していなかったため、燃料補給時もエンジンを起動しておく必要がありました。オンタリオ航空の規則上、エンジンが起動している間は、機内への有毒な煙の流入を防止するため除氷作業は禁止されており、除氷を行うことができませんでした。また、エンジン運転を一旦止めてしまうと、エンジンを再始動するための電源がどこからも供給することができません。そのため給油後もエンジンを止めることができず、除氷作業は断念せざるを得ませんでした。さらに、降雪による天候悪化のため、飛行中だったセスナ機の着陸が管制上優先され、1363便は翼上に雪を積もらせる中、僅か数分間とはいえ待機を強いられたのです。
ドライデン空港を離陸した僅か49秒後、空港から約1km離れた森に墜落しました。離陸待機中に主翼が着氷したことによって十分な揚力が生まれず、安全な上昇ができなかったためです。
オンタリオ航空1363便メモリアル
ドライデン空港の西約2km、墜落現場となったマッカーサーロード沿いの森の中に設置された記念碑です。
ギムリー・グライダー博物館(MB州)
最後は、ちょっと雰囲気が違います。1983年の「ギムリー・グライダー事件」を伝える博物館です。これも人為的ミスによる航空事故には変わりはありませんが、1人も犠牲者は出ていません。
「ギムリー・グライダー」とは
1983年7月、モントリオール発オタワ経由エドモントン行きのエア・カナダ143便のボーイング767が、燃料欠乏によりエンジンが空中で停止し、ギムリー空港に滑空し不時着した事故です。怪我人は発生しましたが、乗員・乗客の計69名、全員が無事でした。
高度41,000フィートで飛行中に燃料切れが発生し、エンジンが両方とも停止したため、滑空状態のままマニトバ州の元カナダ空軍基地ギムリー空港へ緊急着陸した事故です。機長がグライダー経験者であり、グライダーでは多用される高度処理法である「フォワード・スリップ」を大型機にも関わらず巧みに使い、無事に滑走路に着陸させたため、大事に至りませんでした。しかし、前脚が完全に降りきらなかったために格座した格好で着陸滑走し、脱出時に乗客が一部怪我をしています。
原因は、燃料の自動計量装置が故障していたことに加え、給油を担当する地上スタッフが燃料の計算単位を間違えたため、必要な燃料の4分の1しか入ってなかったためです。飛行中も、実際よりも少ない燃料量が誤って表示され続けたため、実際に燃料が欠乏する時まで、パイロットはその状態に気づきませんでした。
ギムリー・グライダー・ミュージアム
ウィニペグ国際空港の北約100km、ギムリー・インダストリアル・パーク空港の東約5kmのウィニペグ・レイクのほとりにあります。館内にはグライドを体験できるフルサイズ・フライト・シミュレーターや事件当時の物や機体の一部が展示されています。
まとめ
世界中の航空安全を祈ります。